2日目:声の正体は

「ずっと逃げているだけじゃないか」

はっと目を覚ましたその一瞬、ここがどこだか分からなくなった。眠い目を擦りながら辺りを見渡すと、全てのシャッターが閉ざされた静かな商店街の中で自動販売機だけが煌々と光を放ち夜明けを待っていた。久しぶりの長距離走行で疲れ切って、広場に設置されたベンチにマットを敷いたその上で眠ってしまっていたようだ。8月とは思えない肌寒さですぐに目は冴えてここが青森県弘前市であること、自分は今、自転車で旅をしていることを思い出す。どうやら東北の夏は短いらしい。それもそうか、この旅はまだ始まったばかりで夏の真っ只中を生きているような感覚に陥ってしまうが、8月はまもなく終わるのだ。そして夏は日に日に遠ざかっていき四季は巡る。人はその数えきれない程繰り返されてきた流れに身を任せることしかできない。ぼうっとしてるとうっかり置いていかれて風邪を引くかもしれない。確実に僕を捉えたその声には気づかないふりをして身支度を始めた。

 

まずは温かい飲み物と朝食を買うために弘前駅前のコンビニに寄った。店内ではスーツと作業服姿の男性が数人いてそれぞれ朝の活力を物色している。僕はおにぎりと温かいお茶を購入して店の外にでた。時刻は午前6時。世界が目を覚まし、社会の歯車が回転し始める時間だ。目の前で電車を利用するであろう人々が行き交う。それぞれが自らのネジを回して社会の部品になっていく。なんだか自分だけが世界の秩序から弾き出されてしまったようだ。そう思うと少しだけ決まりが悪くなり、おにぎりをお茶で流し込んですぐにその場を離れて南に向かってペダルを踏んだ。

 

整備された駅前を出発するとすぐに緑の田園風景が広がった。どこか故郷の景色に似ていて、稲の擦れあう音がサラサラと耳が気持ち良い。重い荷物を後ろに積んだ状態での走行に苦戦していた昨日とは違い、効率的なペダリングで僕はロードバイクの本領を引き出す。車輪は路面に吸い付き、速さを求めることに特化したそのマシンはぐんぐん景色を追い越して進んでいく。同時に地面から伝わる振動は全て体に吸収された。

 

田園地帯を抜けると今度は徐々に道幅が狭くなり、山が近いことが分かる。県境をつなぐ山道には商店や自動販売機はない。セーフティネットが存在しない長野の山中で1度倒れた経験から学び、水とスポーツドリンクを余分に買い足して2本あるボトルに補給した。現在時刻は10時。気づけば早朝の冷え込みが嘘だったかのように日が照り出しキリキリと肌を刺していた。僕はもう1度気合を入れ直して自転車を漕ぎ出す。

 

どれくらい休みなく登っただろうか。気の遠くなるほどに長く山道は続く。右脚を踏み込んだら次は左脚を踏み込む。ケイデンスを変えずに淡々と漕ぎ、一時的な急勾配区間では速度を落とさないようにダンシングでパワーを上げる。ずっとこれの繰り返しだ。大腿四頭筋とハムストリングに集中して乳酸が溜まり、早く山を抜けたい気持ちとは裏腹に脚は重りが追加されていく。どれだけぬぐっても汗は首筋を伝って流れた。目的地まで何回この作業を繰り返して山を越えるのだろうか。そんな気持ちがよぎった瞬間、はじめからそうしようと決めていたかの様にふっとペダリングをやめて地に足をついてしまった。悪い癖だが仕方ない、休憩しよう。自転車から降りて道端に座り込む。ガードレールを一歩跨ぐとそこはもう急斜面で、木々が連なっている。人も車も通る気配はなく、この大きな山の中で人間は僕しかいないのではないかと思えてくる。水分の残量がまだ充分であることを確認して頭から水をかぶった。ライフラインでもあるその水は汗によるべたつきを洗い流して幾分か気持ちをすっきりさせた。やがて体全体から雨後のしずくのように滴り落ちて地面を打つ水滴のテンポは上がる。トン………トン……トン…トン…。なんだかぼうっとしてきた。そんな自分の意識の変化には気づいていたが、そのまま身を委ねて流されることにした。

 

「逃げているだけじゃないか」

 

うだる暑さに足を取られている間に、声の主にとうとう追いつかれてしまったようだ。彼は言う。

 

「そうやって意地を張って何かに熱中することに何の意味があるのだろう」

 

…。

 

「結局大事な何かから目を背けて、それを誤魔化す為に、自分を騙す為に、その場その場を一生懸命で取り繕っているだけじゃないか」

 

彼の言う通りだ。みんなができる当たり前が僕にはできない。自分を取り巻くあらゆる苦手に目を塞いで逃げ続けた結果がこの知らない土地の山奥だ。自分に落とし所を見つけられたらどれだけ楽だろう。それでも…。僕は言う。

 

「それでも、僕は身の程なんてものを知るのをやめたんだ。何かに酔って死ぬまで現実の輪郭をぼかし続ける。例えそれが自分でも構わない。ひたすらに幻想の中を彷徨って、いつか悲しみの死亡通知が届くのを待つことにする。それでも目が覚めてしまったらこの目を焼こう」

 

彼は夏空へと消えていった。

日にさらされて熱をたっぷり吸い込み、猛々しく生い茂った木々の葉っぱの隙間から見えた夏空は、ぼかして見るには少しだけもったないと思える青だった。

僕は再びサドルに跨って霧がかる次の街を目指す。