蠢き

壁を蹴り破ってもどこにもいけなかった10代をやり過ごして暫く、再び息の方を忘れた僕は喧噪の街を抜けここに戻ってきていた。汀の潮騒が吹き抜ける海辺の小さな部屋。強がりで辛うじて凝固した今にも崩れ落ちてしまいそうな部屋。

穴を塞いでいる壁紙を剥がして中を覗き込むと立ち込める闇の中に琥珀したあの頃の怒りと憂鬱が今もなお純度の高いこと。その見事さやあまりの幼稚さに見惚れていると、少しずつ闇に吸い込まれていくのが分かる。僕は闇の中でこの数年に想いを馳せる。

 

黒く、黒く尖らせた。

息を止めて深く潜った。

運ぶ指先のダンスで小さな世界を探した。

綺麗事の為にいくらでも泥に塗れた。

拗れた煙を朝日に透かして幾らかの希望をみた。

 

はずだった。どうやら喪失の予感は正しかった。結局は今もうだつは上がらないまま、どこにも行けない虫みたいな自分だ。随分と遠くまで来たつもりが振り出しに戻る。そして行き止まりの夜。

僕はただ、あなたを救ってやりたかった。鍵を閉めた内側の世界で、どこにもいかないままで、大きな欠落が生み落とした美しさが序列や経済の届かない場所まで運んでくれると信じていた。どうして僕たちは叶わないものから順番に愛してしまうのだろう。

 

白波の砕ける音で目を覚ます。窓の外から漂うほのかな死の匂いが僕を部屋の外へ連れ出す。

 

歩く。

漁港 疲れきった漁船 散らばった網 擦り減ったロープ 赤く錆びついたトタン屋根 荷台が空の軽トラック フジツボで仕上げたテトラポット 砕けた波

また歩く。

白々と広がる砂浜 繁忙期を過ぎた海の家の静けさ 防風林のさざめきだけ 長く伸びるサイクリングロード 風が凪ぐ 小さく揺れる水面 反射した太陽光

 

果たせなかったいつかの約束や、通り過ぎていった人々への思い出を波に浸して溶かす。あらゆるものがその本来の形と意味を失って混ざり合い、しばらくすると街ができた。小さな街が砂浜に停泊する。

その街は何もかもが透き通っている。悲しみでさえも。昨日も今日も明日もなくて、美しい瞬間を詰め合わせたよう。

両親がいる。祖父母がいる。友人がいる。もう会えない人がいる。関わるはずのない友人同士が談笑している。僕はといえば、皆と同じ格好をして皆と同じ言葉を話している。

 

このままこの街に身を預け生きていけるかもしれない、そんなことを考えていると一羽の鳥が歪な足取りで砂浜を歩いているのが目に入った。カモメだ。よく見ると羽が折れてしまっている。近づこうとするとカモメは僕の気配を察知して体を引きずりながら逃げていく。その命はまさに消えかかっているにも関わらず、なぜだかその足取りに力に満ち溢れた美しさを見た。カモメはあっという間に見えなくなってしまった。

 

突然激しい感情が沸き起こってきた。僕の中で芽を出した感情の波は、夏の日差しを浴びた草花のようにぐんぐんと高く大きくなっていく。

ああ僕はなんて愚かなことをやろうとしていたんだろうか。たしかにこの世は確かに救いようがない。夢に生きても現実を生きても理不尽で分かりやすいものだけが正義。そして消費されていくサークル。嘘をつく人。思うように動かない身体。それでも、この濁った瞳に映るあの一羽の鳥の、この肌を撫でるぬるい風の、この鼻に香る親しい匂いの、美しさは変わらないではないか。

 

今は力強い一歩を踏み出せなくても、頼りなく揺らぐ体で進むべき方へと体を傾け薄鈍の今日を明日に繋ごう。僕は街をぐしゃぐしゃに踏み潰して電車に乗った。