海月たゆたう
生活にポッカリ穴が開いてしまってどのくらい経っただろう。もう喪失した空白の形すら思い出せないなあ。あれだけ読み込んだ本の一節さえ、いとも簡単にバラバラになって色を失ってゆくんだね。ねえ君は覚えていますか?
色とりどりの錠剤が胃に溶けて身体中を駆け巡っていくその様子を綺麗だと思う。色んな引き出しを開けたり閉めたりして正しい場所に導いてくれようとするけれど、それでも相変わらず騒がしい夜がある。そんな時は自分の中がぐちゃぐちゃになるのがわかるんだ。意識がベットに沈み込んだ肉体をすり抜けふわふわと部屋の中をさまよっていて、なんだか透明な海月になったみたいな気分。離脱した海月は暗い水槽のその外へ意識を滑らせて都市を彷徨いはじめる。
公園が見える。
陽炎立ち昇る日向に規則正しく揺れるブランコ。どこかの家から風鈴の透明な音色が聞こえてくる。どうやら季節は夏みたい。緑の葉を携えた木立が吹き抜ける風になびいて影の形が絶えず変化している。その下で談笑する母親たち。虫たちの魂の震えに掻き消されて会話の内容までは届かない。噴水で遊ぶ子供たち。水しぶきに光が乱反射して幻みたいな景色を作り出す。言葉にならない声で約束を交わしている。明日も晴れると信じて疑わないその強さ、かつては僕にもあっただろうか。
夕立の中 一緒にずぶ濡れになって走った君たちは傘を手に入れたんだね 共にそこに 行けたかもしれなかったその場所で きっと輝くのだろう せめて 正しい笑い方を忘れてしまった僕の 笑っていた思い出だけ一緒に連れて行ってください。
震えるように絞り出した声は誰にも届くことなく海月は泡沫に消えていく。
6月1日
かつての常套句を口にする事さえ憚られるようになって、結んだ約束があんなにも脆いものだと気づかされたのはまだ寒い頃の出来事だった。
先延ばしになった、或いは自らそうしてきた物事がモゾモゾと動き始める音がする。ただ、弱虫なわたしはもう少しだけ曖昧なままでいたいと思ってしまうんだ。そのわけはあと一寸で埋まらない隙間に入り込んだ懐かしさや気恥ずかしさだったりして、そんなものは握る手のひらに溶かしてしまえるといいのだけれど。
それさえ叶えることができるならば、私は何もいらないと心の底から言えるだろう。憧れや名誉も、数知れぬ人々の魂に届くようなわたしだけの言葉さえも。
熱いシャワーを浴びたあとの火照った身体を冷ますために窓を開けると、網戸をすり抜けて部屋の中に夏が染み込んできた。夜空を見上げたわたしたちの真黒な水晶に飛び散った極彩色の滴が、新しい約束を結ぶ合図のような気がした。堰をきって溢れ出るその全てをもう一度かき集めて、紺碧の蝶がさなぎからかえるのかどうかを確かめに行こう。
作品1
風のさらさら流れる木立の丘に小さな一軒家。
病弱な少女は春の訪れとともに種をひとつだけ植えた。
それはまだ誰も知らない花。
名前さえもついていない花。
咲くかどうかも分からない花。
芽を出した葉は奇跡の色をしていた。
彼女はその小さな苗を育てる生活に身を置く。
葉が成長するにつれて次第に体調も回復していって
主治医の先生も褒めてくれた。
苗が育つと鉢を変えた。
数少ない友だちが集まってそれを手伝ってくれた。
彼女はこれまでの人生が間違ってはいなかったのだと知る。
夏を凌いで秋が深まり、吐く息が白くなりはじめた頃、花は咲いた。
彼女は嬉しげにその美しい花を見つめ、幾重にも重なる花びらの奥に隠れた弱さを認めた。
先生はぜひ家の外に出すべきだと、もっと多くの人に見せるべきだと言った。
彼女はあまり乗り気ではなかったが先生の言う通りにした。
雨が降った。世界で1番冷たくて黒い雨。
鉛色の雲から注ぐ強い雨は瞬く間に花弁をもぎ取った。
ねえ先生、どうして一生懸命に育てあげた花は冷たい雨に晒されなければいけないのでしょうか、
わたしはただ、わたしがここにいたという小さな欠片を残したかっただけなの。
先生は何も言えずに立ち尽くした。彼もまた黒い雨を降らせた大人の1人なのだから。
雨で洗われた後の空気は、皮肉にも未来さえいらないと思えるほどに澄み渡った美しさだった。
終わりに。
今日が救われるならそれでいいじゃないか
そう自分に言い聞かせて、無垢の琥珀に包まれた綺麗な玉虫色を壊しながら溶けて崩れて縺れていった。きっと大丈夫、春の雪が全ての罪深いはぐれ者たちの足跡を消してくれるよ。またすぐに解けて、もう2度と交わらない事も知っている。だから、4月になったらひとつだけ嘘をつこうと思う。いつかまた会えたら変わっていく私に変わらないあの海の青を教えてほしい。
車窓に映った地方都市と呼ぶのもはばかられる街のひとつひとつが内包する人々の暮らしに飛び込んでみる。皆窮屈さを感じながらこの場所で過ごしているように見えた。隣にいる人間との精神的距離の近さから生まれる気まずさが凝固して蔓延っている。もしかしたら時速260kmで通り過ぎていくこの金属の塊が行く先に思い馳せているかもしれないな。それでも、私は迂闊にもこういった景色にこそ安らぎを感じてしまい、終点になんて着かないでほしいと思った。電車から降りてしまえば私は旅人ではなくなり、日常に連れ戻されてしまう。ああ、いっそこのまま平成と次の時代の間の暗闇に落っこちてしまえばいいのに。年号が変わったところで私の息苦しさは何も変わらず、麻痺した身体での綱渡りは終わらないのだから。次の道がまた途方もない場所まで続いていくのだとしたら、これからの私に必要なのは死ぬ覚悟でも生きる希望でもなく、色々な事を忘れて諦める事なのかもしれない。春の陽気や色づいていく花に騙されて、もともと何か幸せな事があったかのような幻肢痛に悩まさせるのはもううんざりだ。
明日
少女は知っていた。翼の生えたブーツを持っていないことを。膨れ上がった自意識を抱えたまま、人間にも、虎にさえもなり切れずに、正しく並んだ真四角の箱の中で生き損なったその先の樹海でまた死に損なった。
少女は知っていた。どんな未来も愛せないことを。それは、見ないふりをして引きずってきた情けない過去の上に積み重なっていくものだから。体に真緑の血を宿し、命を前借りして逃げ続けても、いつか決断の日はやってきて黒い明日に飲み込まれてしまうのだ。
虫のように光に吸い寄せられてたどり着いた部屋の中で膝を抱えて座り込んだ少女は、バケツの底に黒い悲しみが溜まっていつの日か溢れてしまうのを、擦り切れるほどに見つめることしかできずにいた。
それでも、少女は決めていた。全ての悲しみが溢れて流れ出したら、血の滲むような努力で会得した自身の社会性にさえ唾を吐き捨てて水辺に大きな国をつくるのだ。
そこには理屈も法律もない。誰の声も届かない。それはそれは綺麗な、彼女だけの宝石。
さよなら宝島
彼は水没都市で暗い少年時代を送っていた。どこにいても息が詰まりそうで、いつも死に場所を探していた。ふとした事がきっかけで彼はノアの方舟のチケットを手にして、いつの日か旅立った。
かつての水没都市は時を経て宝島になっていた。幻の宝島にはもう忘れてしまった人の魂が眠っていて、あまいあまいお菓子が手に入り、よく熟れた果実がそこら中に実っている。どこに行ってもみんな彼をもてなし、褒めてくれた。まるで王族にでもなったみたいじゃないか。本当は、行く場所なんてのはどこにもないのに。冠なんてのは錆びついた虚構なのに。
ひと休みのつもりが気づけば長い間宝島での生活に身を預けてしまっていることに気づいた彼は、自分に嫌気がさして泣いてしまった。あらゆる繋がりの中では、研ぎ澄ませていた自分の針がなまくらになって使い物にならないのをよく知っていたから。街の底を這いずり回って夜露を啜るような生活の中でしか何かを生み出すことができないことを知っていたから。
沈んでいく街で 並んで歩きながらふたりで朝焼けを見たあの夏の煌めきさえも海に沈めよう そうだ それがいい
そう言って彼は、暗いトンネルを抜けてまたひとりになった。