再開。

会社員としての日々は巨大な資本主義に巻き取られてどこからか湧いて出てくるタスクをモグラ叩きのように潰していく作業に1日の大半を費やし、その1日の連続です。元々好きだった建築を仕事にして、その仕事内容は想像と大きな差はないもののやはり会社に属して利益のために最短距離で行動しなければいけないという理念によって心を摩耗されていきます。

これを改めて書き出してみるとなんて悲しい事なんだろうと思うけれど、幸か不幸か忙しさの中では色んな事を忘れていきます。

大人になるという事は、感受性をある程度奥の方にしっかり隠しておくことであると村上春樹は語っているけれども、悲しい事をきちんと悲しみ切る事ができたり、時間をかけてコンテンツ咀嚼できたり、不器用でも自分なりの表現を昇華させる事ができる人は魅力的だなあと最近改めて思うようになったので、誰にも見られていないこのブログを再開します。

 

蠢き

壁を蹴り破ってもどこにもいけなかった10代をやり過ごして暫く、再び息の方を忘れた僕は喧噪の街を抜けここに戻ってきていた。汀の潮騒が吹き抜ける海辺の小さな部屋。強がりで辛うじて凝固した今にも崩れ落ちてしまいそうな部屋。

穴を塞いでいる壁紙を剥がして中を覗き込むと立ち込める闇の中に琥珀したあの頃の怒りと憂鬱が今もなお純度の高いこと。その見事さやあまりの幼稚さに見惚れていると、少しずつ闇に吸い込まれていくのが分かる。僕は闇の中でこの数年に想いを馳せる。

 

黒く、黒く尖らせた。

息を止めて深く潜った。

運ぶ指先のダンスで小さな世界を探した。

綺麗事の為にいくらでも泥に塗れた。

拗れた煙を朝日に透かして幾らかの希望をみた。

 

はずだった。どうやら喪失の予感は正しかった。結局は今もうだつは上がらないまま、どこにも行けない虫みたいな自分だ。随分と遠くまで来たつもりが振り出しに戻る。そして行き止まりの夜。

僕はただ、あなたを救ってやりたかった。鍵を閉めた内側の世界で、どこにもいかないままで、大きな欠落が生み落とした美しさが序列や経済の届かない場所まで運んでくれると信じていた。どうして僕たちは叶わないものから順番に愛してしまうのだろう。

 

白波の砕ける音で目を覚ます。窓の外から漂うほのかな死の匂いが僕を部屋の外へ連れ出す。

 

歩く。

漁港 疲れきった漁船 散らばった網 擦り減ったロープ 赤く錆びついたトタン屋根 荷台が空の軽トラック フジツボで仕上げたテトラポット 砕けた波

また歩く。

白々と広がる砂浜 繁忙期を過ぎた海の家の静けさ 防風林のさざめきだけ 長く伸びるサイクリングロード 風が凪ぐ 小さく揺れる水面 反射した太陽光

 

果たせなかったいつかの約束や、通り過ぎていった人々への思い出を波に浸して溶かす。あらゆるものがその本来の形と意味を失って混ざり合い、しばらくすると街ができた。小さな街が砂浜に停泊する。

その街は何もかもが透き通っている。悲しみでさえも。昨日も今日も明日もなくて、美しい瞬間を詰め合わせたよう。

両親がいる。祖父母がいる。友人がいる。もう会えない人がいる。関わるはずのない友人同士が談笑している。僕はといえば、皆と同じ格好をして皆と同じ言葉を話している。

 

このままこの街に身を預け生きていけるかもしれない、そんなことを考えていると一羽の鳥が歪な足取りで砂浜を歩いているのが目に入った。カモメだ。よく見ると羽が折れてしまっている。近づこうとするとカモメは僕の気配を察知して体を引きずりながら逃げていく。その命はまさに消えかかっているにも関わらず、なぜだかその足取りに力に満ち溢れた美しさを見た。カモメはあっという間に見えなくなってしまった。

 

突然激しい感情が沸き起こってきた。僕の中で芽を出した感情の波は、夏の日差しを浴びた草花のようにぐんぐんと高く大きくなっていく。

ああ僕はなんて愚かなことをやろうとしていたんだろうか。たしかにこの世は確かに救いようがない。夢に生きても現実を生きても理不尽で分かりやすいものだけが正義。そして消費されていくサークル。嘘をつく人。思うように動かない身体。それでも、この濁った瞳に映るあの一羽の鳥の、この肌を撫でるぬるい風の、この鼻に香る親しい匂いの、美しさは変わらないではないか。

 

今は力強い一歩を踏み出せなくても、頼りなく揺らぐ体で進むべき方へと体を傾け薄鈍の今日を明日に繋ごう。僕は街をぐしゃぐしゃに踏み潰して電車に乗った。

 

海月たゆたう

生活にポッカリ穴が開いてしまってどのくらい経っただろう。もう喪失した空白の形すら思い出せないなあ。あれだけ読み込んだ本の一節さえ、いとも簡単にバラバラになって色を失ってゆくんだね。ねえ君は覚えていますか?

色とりどりの錠剤が胃に溶けて身体中を駆け巡っていくその様子を綺麗だと思う。色んな引き出しを開けたり閉めたりして正しい場所に導いてくれようとするけれど、それでも相変わらず騒がしい夜がある。そんな時は自分の中がぐちゃぐちゃになるのがわかるんだ。意識がベットに沈み込んだ肉体をすり抜けふわふわと部屋の中をさまよっていて、なんだか透明な海月になったみたいな気分。離脱した海月は暗い水槽のその外へ意識を滑らせて都市を彷徨いはじめる。

公園が見える。

陽炎立ち昇る日向に規則正しく揺れるブランコ。どこかの家から風鈴の透明な音色が聞こえてくる。どうやら季節は夏みたい。緑の葉を携えた木立が吹き抜ける風になびいて影の形が絶えず変化している。その下で談笑する母親たち。虫たちの魂の震えに掻き消されて会話の内容までは届かない。噴水で遊ぶ子供たち。水しぶきに光が乱反射して幻みたいな景色を作り出す。言葉にならない声で約束を交わしている。明日も晴れると信じて疑わないその強さ、かつては僕にもあっただろうか。

夕立の中 一緒にずぶ濡れになって走った君たちは傘を手に入れたんだね 共にそこに 行けたかもしれなかったその場所で きっと輝くのだろう せめて 正しい笑い方を忘れてしまった僕の 笑っていた思い出だけ一緒に連れて行ってください。

震えるように絞り出した声は誰にも届くことなく海月は泡沫に消えていく。

6月1日

 

かつての常套句を口にする事さえ憚られるようになって、結んだ約束があんなにも脆いものだと気づかされたのはまだ寒い頃の出来事だった。

先延ばしになった、或いは自らそうしてきた物事がモゾモゾと動き始める音がする。ただ、弱虫なわたしはもう少しだけ曖昧なままでいたいと思ってしまうんだ。そのわけはあと一寸で埋まらない隙間に入り込んだ懐かしさや気恥ずかしさだったりして、そんなものは握る手のひらに溶かしてしまえるといいのだけれど。

それさえ叶えることができるならば、私は何もいらないと心の底から言えるだろう。憧れや名誉も、数知れぬ人々の魂に届くようなわたしだけの言葉さえも。

熱いシャワーを浴びたあとの火照った身体を冷ますために窓を開けると、網戸をすり抜けて部屋の中に夏が染み込んできた。夜空を見上げたわたしたちの真黒な水晶に飛び散った極彩色の滴が、新しい約束を結ぶ合図のような気がした。堰をきって溢れ出るその全てをもう一度かき集めて、紺碧の蝶がさなぎからかえるのかどうかを確かめに行こう。

 

 

作品1

風のさらさら流れる木立の丘に小さな一軒家。

病弱な少女は春の訪れとともに種をひとつだけ植えた。

それはまだ誰も知らない花。

名前さえもついていない花。

咲くかどうかも分からない花。

 

芽を出した葉は奇跡の色をしていた。

彼女はその小さな苗を育てる生活に身を置く。

葉が成長するにつれて次第に体調も回復していって

主治医の先生も褒めてくれた。

 

苗が育つと鉢を変えた。

数少ない友だちが集まってそれを手伝ってくれた。

彼女はこれまでの人生が間違ってはいなかったのだと知る。

 

夏を凌いで秋が深まり、吐く息が白くなりはじめた頃、花は咲いた。

彼女は嬉しげにその美しい花を見つめ、幾重にも重なる花びらの奥に隠れた弱さを認めた。

 

先生はぜひ家の外に出すべきだと、もっと多くの人に見せるべきだと言った。

彼女はあまり乗り気ではなかったが先生の言う通りにした。

 

 

 

雨が降った。世界で1番冷たくて黒い雨。

鉛色の雲から注ぐ強い雨は瞬く間に花弁をもぎ取った。

 

 

 

ねえ先生、どうして一生懸命に育てあげた花は冷たい雨に晒されなければいけないのでしょうか、

わたしはただ、わたしがここにいたという小さな欠片を残したかっただけなの。

 

先生は何も言えずに立ち尽くした。彼もまた黒い雨を降らせた大人の1人なのだから。

 

雨で洗われた後の空気は、皮肉にも未来さえいらないと思えるほどに澄み渡った美しさだった。

2日目:声の正体は

「ずっと逃げているだけじゃないか」

はっと目を覚ましたその一瞬、ここがどこだか分からなくなった。眠い目を擦りながら辺りを見渡すと、全てのシャッターが閉ざされた静かな商店街の中で自動販売機だけが煌々と光を放ち夜明けを待っていた。久しぶりの長距離走行で疲れ切って、広場に設置されたベンチにマットを敷いたその上で眠ってしまっていたようだ。8月とは思えない肌寒さですぐに目は冴えてここが青森県弘前市であること、自分は今、自転車で旅をしていることを思い出す。どうやら東北の夏は短いらしい。それもそうか、この旅はまだ始まったばかりで夏の真っ只中を生きているような感覚に陥ってしまうが、8月はまもなく終わるのだ。そして夏は日に日に遠ざかっていき四季は巡る。人はその数えきれない程繰り返されてきた流れに身を任せることしかできない。ぼうっとしてるとうっかり置いていかれて風邪を引くかもしれない。確実に僕を捉えたその声には気づかないふりをして身支度を始めた。

 

まずは温かい飲み物と朝食を買うために弘前駅前のコンビニに寄った。店内ではスーツと作業服姿の男性が数人いてそれぞれ朝の活力を物色している。僕はおにぎりと温かいお茶を購入して店の外にでた。時刻は午前6時。世界が目を覚まし、社会の歯車が回転し始める時間だ。目の前で電車を利用するであろう人々が行き交う。それぞれが自らのネジを回して社会の部品になっていく。なんだか自分だけが世界の秩序から弾き出されてしまったようだ。そう思うと少しだけ決まりが悪くなり、おにぎりをお茶で流し込んですぐにその場を離れて南に向かってペダルを踏んだ。

 

整備された駅前を出発するとすぐに緑の田園風景が広がった。どこか故郷の景色に似ていて、稲の擦れあう音がサラサラと耳が気持ち良い。重い荷物を後ろに積んだ状態での走行に苦戦していた昨日とは違い、効率的なペダリングで僕はロードバイクの本領を引き出す。車輪は路面に吸い付き、速さを求めることに特化したそのマシンはぐんぐん景色を追い越して進んでいく。同時に地面から伝わる振動は全て体に吸収された。

 

田園地帯を抜けると今度は徐々に道幅が狭くなり、山が近いことが分かる。県境をつなぐ山道には商店や自動販売機はない。セーフティネットが存在しない長野の山中で1度倒れた経験から学び、水とスポーツドリンクを余分に買い足して2本あるボトルに補給した。現在時刻は10時。気づけば早朝の冷え込みが嘘だったかのように日が照り出しキリキリと肌を刺していた。僕はもう1度気合を入れ直して自転車を漕ぎ出す。

 

どれくらい休みなく登っただろうか。気の遠くなるほどに長く山道は続く。右脚を踏み込んだら次は左脚を踏み込む。ケイデンスを変えずに淡々と漕ぎ、一時的な急勾配区間では速度を落とさないようにダンシングでパワーを上げる。ずっとこれの繰り返しだ。大腿四頭筋とハムストリングに集中して乳酸が溜まり、早く山を抜けたい気持ちとは裏腹に脚は重りが追加されていく。どれだけぬぐっても汗は首筋を伝って流れた。目的地まで何回この作業を繰り返して山を越えるのだろうか。そんな気持ちがよぎった瞬間、はじめからそうしようと決めていたかの様にふっとペダリングをやめて地に足をついてしまった。悪い癖だが仕方ない、休憩しよう。自転車から降りて道端に座り込む。ガードレールを一歩跨ぐとそこはもう急斜面で、木々が連なっている。人も車も通る気配はなく、この大きな山の中で人間は僕しかいないのではないかと思えてくる。水分の残量がまだ充分であることを確認して頭から水をかぶった。ライフラインでもあるその水は汗によるべたつきを洗い流して幾分か気持ちをすっきりさせた。やがて体全体から雨後のしずくのように滴り落ちて地面を打つ水滴のテンポは上がる。トン………トン……トン…トン…。なんだかぼうっとしてきた。そんな自分の意識の変化には気づいていたが、そのまま身を委ねて流されることにした。

 

「逃げているだけじゃないか」

 

うだる暑さに足を取られている間に、声の主にとうとう追いつかれてしまったようだ。彼は言う。

 

「そうやって意地を張って何かに熱中することに何の意味があるのだろう」

 

…。

 

「結局大事な何かから目を背けて、それを誤魔化す為に、自分を騙す為に、その場その場を一生懸命で取り繕っているだけじゃないか」

 

彼の言う通りだ。みんなができる当たり前が僕にはできない。自分を取り巻くあらゆる苦手に目を塞いで逃げ続けた結果がこの知らない土地の山奥だ。自分に落とし所を見つけられたらどれだけ楽だろう。それでも…。僕は言う。

 

「それでも、僕は身の程なんてものを知るのをやめたんだ。何かに酔って死ぬまで現実の輪郭をぼかし続ける。例えそれが自分でも構わない。ひたすらに幻想の中を彷徨って、いつか悲しみの死亡通知が届くのを待つことにする。それでも目が覚めてしまったらこの目を焼こう」

 

彼は夏空へと消えていった。

日にさらされて熱をたっぷり吸い込み、猛々しく生い茂った木々の葉っぱの隙間から見えた夏空は、ぼかして見るには少しだけもったないと思える青だった。

僕は再びサドルに跨って霧がかる次の街を目指す。

終わりに。

 

今日が救われるならそれでいいじゃないか

そう自分に言い聞かせて、無垢の琥珀に包まれた綺麗な玉虫色を壊しながら溶けて崩れて縺れていった。きっと大丈夫、春の雪が全ての罪深いはぐれ者たちの足跡を消してくれるよ。またすぐに解けて、もう2度と交わらない事も知っている。だから、4月になったらひとつだけ嘘をつこうと思う。いつかまた会えたら変わっていく私に変わらないあの海の青を教えてほしい。

車窓に映った地方都市と呼ぶのもはばかられる街のひとつひとつが内包する人々の暮らしに飛び込んでみる。皆窮屈さを感じながらこの場所で過ごしているように見えた。隣にいる人間との精神的距離の近さから生まれる気まずさが凝固して蔓延っている。もしかしたら時速260kmで通り過ぎていくこの金属の塊が行く先に思い馳せているかもしれないな。それでも、私は迂闊にもこういった景色にこそ安らぎを感じてしまい、終点になんて着かないでほしいと思った。電車から降りてしまえば私は旅人ではなくなり、日常に連れ戻されてしまう。ああ、いっそこのまま平成と次の時代の間の暗闇に落っこちてしまえばいいのに。年号が変わったところで私の息苦しさは何も変わらず、麻痺した身体での綱渡りは終わらないのだから。次の道がまた途方もない場所まで続いていくのだとしたら、これからの私に必要なのは死ぬ覚悟でも生きる希望でもなく、色々な事を忘れて諦める事なのかもしれない。春の陽気や色づいていく花に騙されて、もともと何か幸せな事があったかのような幻肢痛に悩まさせるのはもううんざりだ。